2009年10月 3日 (土)

不公平

私は過去約20年にわたり派遣社員であった。

Pc_2 ハッキリ言って20年前の派遣社員に比べれば、今の派遣社員は恵まれている。
私が派遣になった頃は、年金も健康保険も全部自腹。雇用保険だってない。
10年目くらいから派遣法とやらが整備され始め、希望すれば就業している期間のみ、年金や各種保険の保険料を派遣元が一定額負担してくれるようになった。その後有給休暇もつくまでになった。

それでも手が足りないから派遣を雇うのであって、手が足りればお役御免は当然のこと。
派遣とはそういう立場と承知でしてるのだから、文句は言えない。


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2009年5月18日 (月)

這いずりもん

草が生い茂る季節になってきた。

Garden1 庭木は緑が繁り、名前の知らない草が一気に庭を覆い始める。こうなったらもー大変。端から草を引き始め、ようやくもう一方の端に辿り着いて振り返れば、1週間前に引いた地面からもう次の草がニョッキリと・・というイタチゴッコだ。

最終的には2ヶ月に1回ほど業者に頼んで機械で刈ってもらうが、それまでの庭はまるで放置された幽霊屋敷の如くになる。そこで我が物顔に闊歩するのが、這いずりもん。

: 以下、這いずりもんの描写が多々登場します。這いずりもんが苦手な人は、決して「続きを読む」をクリックしないで下さい。

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2009年4月12日 (日)

組の人々

最近・・と言っても去年の秋頃だが、某組の某幹部の事務所が入るビルが改装された。

噂に依れば、このビルの事務所はダミーという事だが入口には堂々と表札がかかり、何かあれば警官が警備につくので、多少は関係あったのだろう。

改装後は、ミラータイプの窓やシルバー系の塗装ですっかり要塞の趣きがあるが、改装前は昭和の香り漂う、なんとも牧歌的な建物であった。

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2009年4月 9日 (木)

給湯室の人々

朝・昼・3時・夕と日に4回給湯室に行く。

同じフロアに10社ほどあるので、この時間は他所の事務所とカブる事が多い。
ヨソ様はほとんどが20代くらいの女性だ。

皆さん、実に熱心に時間をかけて洗い物をする。
今どきの若い女性はキレイ好きなのねぇ。

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2009年1月13日 (火)

ぼくたちの八十年代 身内編

さて、ここからは実際に私の周りに居た人たち。

広いギョーカイのほんの片隅にあった、人物往来です。
多分一生目に触れないと思うけれど、万一見つかって、もしかしてコレって私?とか、私はこんなこたぁしてない!と文句がある場合は、ご連絡下さい。

昔の仲間が集まると語り継いでいる話なので、まず間違いはないと思うけど、まぁ、多少のオヒレがつくのはギョーカイのお約束ってことで、許してちょ。

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2009年1月 2日 (金)

ぼくたちの八十年代 ギョーカイ編

カレから1冊の本を借りた。

70ties 高平哲郎 「ぼくたちの七十年代」
大学を出て広告会社に勤める傍ら、大学時代からのアルバイト絡みで出版社にも出入りし、広告会社退社後は、創刊されては2号か3号で廃刊になるような雑誌作りに関わり、方やテレビの世界に足を踏み入れ構成作家として名を上げ、その間に巡り合った様々な人物と著者の歴史を70年代の出来事とジャズと共に振り返る・・といった内容だ。

で、なぜこの本なのかと言えば、ここに出てくる広告会社が私の古巣だからだ。

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2008年12月14日 (日)

補聴器

今年85歳の父は補聴器を持っている。持っているが家で使う事はない。いまだ細々ながら仕事をしているが、その仕事先との打合せやマンションの管理組合の会合といった、他人と会う時に使うだけだ。

分かりやすく言えば、『耳が遠いという理由だけで社会から身を引き、家に引き篭もることがないように補聴器を使いましょう』というのが老人向け補聴器販売のコンセプトだ。社会からの疎外は確かに本人にとって大きな事だし、社会からの刺激が少なければボケる速度も早いかもしれない。ただ、外ばかり見ていて良いのかという思いもある。

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2008年10月24日 (金)

本 第二版

柴錬みたいな大衆小説より、文学を読め。

Book 毎日学校で会えるのが嬉しくて仕方ない年上のボーイフレンドにこう言われて、シバレンモードが一気に萎えた。彼が又、同級生ながら色々な経験をしている3歳年上で、ちょっと正体不明と言うのも妙に説得力があった。確かに本もよく読んでいて博学でもあり、言ってみれば、「薔薇」という字が書けるだけで、アタシのカレシって頭イイと思うオネーチャンの気持ちが良く分かるという感じでしょうか。(^-^;

で、柴田翔の「されど、われらが日々-」を渡されたわけだが、シバレンモードが萎えたと同時に何となく本自体への執着みたいなのも落ちてしまい、時を同じくして芝居の方に興味が向いた事もあり、しばらく本からは遠ざかってしまう。

社会人になってからは、母曰く「ギョーカイにどっぷりと肩まで浸かった」バブリーな毎日で、ほぼ毎夜六本木辺りに出没し、本なんて読むヒマもない。そこで出会った元夫はプチ左翼系。まことしやかに理屈を並べ、やたら弁が立つ。独り暮らしでお金に困ると、紙袋に詰め込んだ文庫本を両手に提げて古本屋へ行き小銭を稼いだ、という話を聞かされて、本をたくさん読んでいるんだな~と単純に感心した。部屋に行けばJazzのレコードの合間に文庫本、単行本や「太陽」といったいわゆるムックがゴロゴロしている。

家の狭さのために、本棚に囲まれて暮らしていた環境のせいか、本が多い空間に居るとなぜかホっとするというか安心してしまう。結婚して分かったのは、本の嗜好が違うということ。元夫はSFファンタジーがお好みで、夢枕獏の「魔獣狩り」シリーズを次から次へと買って来たが、その面白さは最後まで分からなかった。後に今のカレに「神々の山嶺」を渡されて、へぇ~、こんな本も書くんだと知ったのだが、この「神々の山嶺」が柴田錬三郎賞を受賞したというのも、何やら因縁めいている。

沢木耕太郎の「深夜特急」を知ったのも元夫の部屋だ。そして本ではないが毎月購読していた「写真時代」も、最初は何コレ、エロ本?と思いながら見ていたのだが、次第にアラーキーの感性や赤瀬川原平の写真エッセーに惹かれるようになった。アラーキーは確かに天才だ。色使いが不思議でステキ。共働きでじっくり活字を追う時間もなく、あげく当の本が遠因でブチ切れ家を飛び出した。

それ以来本とは殆ど縁のない生活だったが、目の前に本あれば、何の抵抗もなく自然に目が文字を追う。今まで読んだ本が果たして今の私の根っこになってるかどうかは分からないが-ただ、狂四郎の『明日のために今日を生きてはおらぬ』はかなり引き摺っている-少なくとも「本を読む」という行為は既に身体に染み付いていたようだ。

カレと付き合い出して、また本が日々の生活の中に常に在るようになった。逢うたびに2冊くらいは渡され、おまけに後で「読んだ?どうだった?」と感想を求められるので、読まざるを得ない状況に追い込まれる。でも、苦痛なことは決してない。もらった本の作者がらみで、自分で探し出して読んでみる事もある。本屋や古本屋は、TDLやUSJ以上にめくるめくワンダーランドだ。

ただ、本を読むこと自体は楽しいのだが、集中力が以前のように持続しないことが哀しい。学生時代と違って時間がコマ切れに制約されるというのもあるが、本に入り込める加速度が昔より遥かに落ちている。古本が多いので活字が小さく、それも集中力を殺ぐというのもあるのかも知れない。やはり、東急ハンズの2500円のreading glassじゃダメか。

Hondana 先日、今まで書庫として使ってた部屋を別の用途に使う事になり、本を大々的に処分する事になった。本を捨てるのは忍びないが、スペースを空けるにはどうしても残す本と処分する本を選ばなければならない。久し振りに見る本もあって、あぁ、こんな本もあったか、あんな本も読んだのかと懐かしむ・・場合じゃない。半分くらいに減らさないといけないので、心の片隅でチクリと痛みを感じながら、それでも思い切って半分に減らした。一旦肝が据わればエイっと捨てられるのがオンナの常。捨てずに捨てられずウジウジ悩むのがオトコの性(さが)。

ガランとした本棚の僅か二段が私に割り当てられたスペースだ。その内一段は写真が占めてるので、本が置けるのは一段のみ。この歳になると、たとえひん曲がってようと根っこは出来上がってしまっているから、これから読む本は、殆どが翼となるだろう。捨てきれずに残った私の根っこの横に、これからどんな翼がここで羽を休めるのか。

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2008年10月21日 (火)

本 第一版

今振り返って,私にとり,子供時代の読書とは何だったのでしょう。
何よりも,それは私に楽しみを与えてくれました。そして,その後に来る,青年期の読書のための基礎を作ってくれました。
それはある時には私に根っこを与え,ある時には翼をくれました。この根っこと翼は,私が外に,内に,橋をかけ,自分の世界を少しずつ広げて育っていくときに,大きな助けとなってくれました。

Dowa これは10年前のIBBY((国際児童図書評議会)で美智子皇后がスピーチされた基調講演の一部である。

JFKの"ask not what your country can do for you -- ask what you can do for your country" や、キング牧師の "I have a dream"に匹敵する名フレーズだと、私は思っている。この講演内容が本になったとき付けられたタイトルは「橋をかける」。他にも「橋をかける」に繋がる、後々よく取り上げられるフレーズもあるのだが、私の中では「根っこと翼」の言葉に勝るものはない。

幼稚園児の私は、母親が買い物に行く時も留守番を選び、その代わりお土産に頼むのが「本」だった。親は本好きな出不精の子供と思ったようだが、実は母親がつけている香水が苦手で、乗り物に乗ると気持ち悪くなるのがイヤというのが、ほんとの所だ。でも、本好きというのもほんとだ。お土産はたいてい、講談社の絵本だった。画と文で構成されているシリーズだが、ディズニー原作の場合は映画のスチール画像と文のもあったと思う。今でも覚えているのが、「ポリアンナ」。とうもろこしを食べているシーンが印象に残っている。調べてみたら1960年公開だそうで時期的にもピッタリ。感銘した本って記憶に残ってるものなのねぇ。

他に、定番のひろすけ童話やぽぷら社のイソップ童話も買ってもらってた。

小学生の後半は、前にも書いたように友達に干されていた3年間だったので、本を読んで時間を潰す事が多かった。但し、決して『仕方ないから本を読む』・・ではなく好きで読んでたのだけどね。近くに住む従兄弟が確か小学館の少年少女名作全集を持っていたので、1冊2冊と持ち出していたのだが、最終的には残り全部を引き取ってしまった。寝る前に布団の中で読む事が多かったのだが、コナン・ドイルの「パスカヴィル家の犬」なんぞは、寝静まった夜に読むには、まぁ、ページをめくる度にドキドキ・ビクビクもので楽しいお話でした。

名作全集も読破し、さぁ、他に読む本はと見回せば、頭上のスチール本棚(なにせ狭い家なもんで)にあったのが母が結婚時に持参した近代文学全集。ほなら、これでも読むかと小学生にして林芙美子や山本有三、菊池寛を読み始めた。戦前の本は大人向けでも漢字にルビがふられているので(但し、旧かなづかいだけど)、漢字ばかりでも何とか読めるものだ。でもやっぱり、宮沢賢治は面白かったけど、「父帰る」や「恩讐の彼方に」はそう面白いとは思えなかった。そりゃそうだ、小学生なんだから。

あと、ふと目に入った松本清張の「黄色い風土」。何気に読み始めたら止まらず、最後の自衛隊演習所に迷い込むシーンを強烈に覚えている。なんちゅう、小学生。

モチロン、小学生らしく漫画も読んだ。この頃はまだ貸し本屋さんがあり、月に1回の契約で月刊のマンガ本「りぼん」を持ってきてもらってた。ついでに父は「文藝春秋」、母は「家庭画報」を頼んでいたと思う。図書館だと最新号の貸し出しは早い者勝ちになるけれど、貸し本屋さんと契約してれば、1週間遅れでも確実に回って来る。雑誌なんて読んだらオワリな所もあるから、買っては捨てるより、貸し本屋さんの方が便利でエコだと思うのだが、なぜかこのシステムがなくなって残念だ。

中学入学のお祝いに買ってもらったのが、旺文社文庫 ど~んと50冊。専用本棚付の特別仕様で、文庫なのに表紙は単行本のように厚かった。どうもこのバージョンは図書館向けの特装本だったらしいが、一括買いの人には今なら本棚付き!の特別セールで親が飛びついたようだ。制服のコートのポケットがまた、丁度ピッタリ入る大きさで、電車通学だったこともあり電車や休み時間によく読んだものだ。この頃の文庫の文字は今より一回り小さかったのに、揺れる電車の中でよく読めたと感心する。かすむ目にムチ打って読む今とは大違い。

ただ、ロシア文学だけは苦手で、登場者の名前がなかなか一発で覚え切れず、一々冒頭の「登場者一覧」に戻るのが面倒でよく挫折した。だって、何たらヴィッチとか何たらフスキーとか、似たような名前が多いんだもん。なので、いまだにロシア文学は馴染めない。

Sibaren 文庫に飽きると、父の蔵書に手を付ける。ほとんどが時代小説だ。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」5巻は夏休み中1週間で読み切った。やっぱり、面白い。子母沢寛や吉川英治も読んだっけ。

そして高校生になり自分で買い出したのが、柴田錬三郎の「眠狂四郎シリーズ」である。正和様が演じて以来のめり込んだのだが、放映中出版された文庫には帯に正和様の写真が載っているので、このバージョンを集めるのに古本屋を回った。狂四郎以外のシリーズも買い込みシバレンワールドまっしぐらの私に、冷や水を浴びせたのが大学時代のボーイフレンドの一言だ。

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2008年3月10日 (月)

バス劇場

Bus2 バス通勤暦は長い。部分的乗車を含めると、新卒で入った時からだから30年近くになる。特にここ15年は毎日の事で、しかも朝はほぼ同じ時間に乗っているから、挨拶こそしないが顔見知りの乗客も出来る。が、15年ずっと一緒という人は1人も居ない。この地の勤め人は移動が激しいのか、大抵5年ほどで入れ替わってしまう。まぁ、その分、目新しい顔が入って来るので、長いバス通勤の日々も飽きなくて済む。

当地では、70歳以上の居住者には市営交通に限って無料パスが出るので、1日を通して高齢者と乗り合わせる事が多い。しかも沿線には新興宗教の本部や大きな病院があるので、お年寄りはひっきりなしに乗って来る。そしてその内女性の殆どが大なり小なりリュックサックを背負ってるのだが、何が入ってるのかやたら膨らんでいる人が居て、しかもそれを断固として下ろさない。バスは後ろ乗り・前降りなので、降りたいバス停が近付くと前へ前へと動かなければならない。その時、両側で大きなリュックサックを背負ったまま立たれると、通路のスペースが狭くなり中々前へ進めない

特に冬場などは着膨れもあって、ますます通路スペースがなくなる。慣れてる人はこういう時は身体を斜めにして両側のリュックサックの間をすり抜けるようにして移動するのだが、お年寄りは何故か正面を向いたまま突っ切ろうとする。おまけに自分もリュックサックを背負ってる。これでは前へ進みたくても進めない。バス停が近付くにつれ焦りもあって、「降りまーす」と叫びながらしゃにむに突っ込み、両サイドのリュック姿のオバチャン達に「何よ、コノヒト」という非難の目で見られ、文句を言われる。

以前車内には、「荷物は足元に」のポスターが貼ってあり、その荷物のイラストはどう見てもリュックサックだったが、最近はあまり見なくなった。車内アナウンスも、「携帯はマナーモードに、お年寄りや乳児連れには座席を譲って」はあるが、「背中のリュックサックは降ろして」は流れた事が無い。車内が込み合うと、運転手が「前へ詰めて」とは言うが、「背中のリュックサックは降ろして」とは言った事が無い。

最近、「バスが停まってから座席を立って下さい」というお願いが、各座席の背中に貼られている。確かにお年寄りは動いてる車内で移動するのは危ない。だから、後部に座っていてもバス停に着いてから前に移動する訳だが、リュックの壁を乗り越えていくには時間がかかり、なかなかバスが発車できない。或は、降りる客が居ないと思った運転手が発車させようとして、降りる客が焦りまくる。路線によって客層も違うのでテープの車内アナウンスは無理としても、運転手が気を利かして「リュックは下ろして」と一言言えば、もう少しスムースに車内を移動できると思うのだが、何故か触れないのは何か理由があるのだろうか?いつも不思議に思う。

雨や雪の日は、普段自転車や歩いている人が乗って来るせいか、バスの乗り方の要領がイマイチ分かってない人が多い。特に中高年男性、いわゆるオジサンに多いのが、最初に立った場所から動かないこと。前述のとおり後ろ乗りの為、お客が降りたら順番に前へ詰めないと後ろばかりに人が溜まってしまう。なので、自分の降りるバス停がまだでも前が空けば前方へ移動するのが、このバスのお約束なのだ。だが、普段乗り慣れてないオジサン方は頑として動かない。しかも、他の乗客が進行方向に対し横を向いているのに、正面を向いて立つ。時には両側のつり革を持って通路に仁王立ちだ。降りたい人が後ろから来ても気付かない。声を掛けてようやく避けてくれるが、人が通り過ぎるとまた仁王立ちに戻るオヤジ。身体の構造上こうでもしないと踏ん張れないのだろうか?今度オヤジなカレに聞いてみよう。

Bus 最近目に付く新顔が、潔癖症の女性。つり革・にぎり棒に絶対掴触らない。この路線には大きいカーブが連続する場所があり、左右に振られるので慣れている人はここに差し掛かるとつり革・握り棒を掴んで、それに備える。潔癖症の彼女は当然何も掴んでないから、カーブを曲がる度に足元がフラつく。たまに人にぶつかって文句を言われたりしているが、「なによっ」という感じで睨み返す。たまに、小さく丸めたティッシュでにぎり棒を押さえるようにして身を預けているが、あまり役に立ってないようだ。

運転手の後ろのフレームに寄りかかるのが、彼女にとっては一番安全な策らしく、乗り込むとどんなに混んでようと一気に前に突き進む。手袋とか大きなハンカチとか、直に触らなくてすむ方法はいくらでもあると思うが、そういう手段を使ったことは見たことが無い。本人がよろけて転ぶのは自業自得だが、もし他人にぶつかって転ばせたらどうするつもりだろう。おまけに降りると駅に向って一目散に走る。それも毎日。そんなに急ぐならもう少し早いバスに乗れっつーの。

たかだか20分程の乗車時間だが、世の中にはいろんな人が居ると感心させられるバス劇場。 ひとまずここで第一幕の終わり。

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2008年2月12日 (火)

ヰタ・チャンバラアリス 後編

Kurama_2 ウチにはわりと早い時期からテレビがあった。だが幼少の頃はさすがに自分からチャンバラにチャンネルを合わすことは無い。子供らしく興味はマンガ向いていた。時代物と言えば親の見るNHKの大河ドラマか時代劇シリーズを一緒に見るくらい。一番古い記憶で「文五捕物絵図」だったか。1967年(S42年)とあるから小学校5-6年の頃だ。そうそう、この頃は「あたり前田のクラッカー」の「てなもんや三度笠」もあった。その後例の友達のお蔭で、NHKの時代劇シリーズを続けてみることになる。

高橋英樹の「鞍馬天狗」は1969年(S44年)。その次が「男は度胸」で天一坊役の志垣太郎の人気が上がり、天一坊の助命嘆願が局に殺到したと言う話題もあったように思う。そしてその翌年の1971年(S46年)、派手なチャンバラはないけれど私の中では時代劇の最高傑作に位置する、「天下御免」が放映される。ストーリーや台詞の端々に当時の世相を取り入れ、確かに純粋な時代劇とは言えない。立ち回りが出来るのも右京さんくらいしかなく、源内さんはもっぱらエレキテル等を使用したアイデア商品?で相手をやっつける。それでも最高傑作に位置する理由は、源内さんのセリフ。「死ぬ時は、あぁ~、楽しかったと言って死にたいなぁ」 この一言に尽きる。私の生き方に影響を与えた作品という点で、「天下御免」は時代劇というよりテレビドラマとして、私の中ではいまだに最高傑作なのだ。

「水戸黄門」も、黄門様とテレコで放映されていた「大岡越前」ももう放送は開始されていたが、偉い人が最後に正体を現してその場の全員がハハァーとなるこの手の勧善懲悪的なものは、あまり面白いと思わなかった。戦前の大立ち回りに比べ、チャンバラが何かお行儀が良すぎるというか、豪快さに欠けるのも理由の一つだ。唯一、昔のチャンバラの血を引いてるかな~と思うのが、高橋英樹の殺陣。この人の殺陣は本当に気風(きっぷ)が良くて気持ちがイイ。桃太郎侍はよくパロディに使われるが、あの殺陣はかなり高度な技ではないかと思う。

そんなこんなで、勧善懲悪的時代劇から完全に外れた私に、「木枯らし紋次郎」が見事にハマッた。「あっしには関わりのないこって」と言いながら揉め事に巻き込まれてしまう、人の良い紋次郎さん。チャンバラもお奉行様たちを違ってむやみやたらに刀を振り回す、どちらかと言えばみっともない太刀さばき。でも親の干渉がウザい年頃の私は、気ままに放浪の旅をする紋次郎の自由が羨ましくて仕方がなかった。

Monjiro しばらくたって、その自由を得るためには、常に歩き続けなけれならないという宿命があるという事も分かって来た。怪我をしたり病気をしたり疲れたりして、ちょっと立ち止まれば親切な人があれやこれや世話を焼いてくれる。たまに、ほのかな想いを寄せてくれる女もいる。暖かい家に温かい食事。つかの間の平和だが、同時に切りたくても切れないしがらみが生まれる。もう、今までの自由は手に入らない。そこで、紋次郎は悩み結局は全てのしがらみを断ち切って、まだ治り切ってない身体で黙ってその場を去り、また旅を続ける。

山道を黙々と歩く紋次郎の姿に、上條恒彦の「ど~こかでぇ、だ~れかがぁ、きっと待っていてくれるぅ」の歌が流れると、いつも目元がじわぁ~と熱くなる。待ってくれる人が居ても、自由を得る為にまたそこを去らなくてはいけない紋次郎が切なくて仕方がない。

「木枯らし紋次郎」とテレコのシリーズは「浮世絵おんなねずみ小僧」だ。昼間は小唄の師匠の小川真由美が、夜はねずみ小僧になって悪代官から大金をせしめては庶民にバラ撒く。小川真由美の色っぽいこと。高校生の私でも、十分にその艶っぽさは伝わった。紋次郎シリーズの後は、同じような股旅ものもあったが、次第に人気は30分早く始まる「必殺シリーズ」に移って行く。

この頃から、闇のヒーロー的な時代劇も多くなる。「大江戸捜査網」の隠密同心達は、冒頭に「死して屍拾う者なし」と、しつこいほど念を押される。そして満を持しての登場は、田村正和の「眠狂四郎」。きゃぁ~、正和さまぁ~! 正和様の追っかけ暦は、尾高さんより長いのだ。原作者の柴田錬三郎は、正和様が一番狂四郎像に近いと言われたそうだが、誰が一番原作に近いかと言えば、私は市川雷蔵を挙げる。原作の狂四郎は正和様の狂四郎ほどストイックではないと思うからだ。もう少し男のスケベさが出ているし、もう少し人間らしい。ちょっとべらんめぇ調の市川雷蔵は、そんな狂四郎像にピッタリと思うのだが、なにせ原作者が太鼓判を押してるのだから、正和様の狂四郎は特別なのだ。

Nemuri_5  正和様の殺陣は、どこを切っても正和様。例えば前述の高橋英樹の殺陣だと、スローモーションで見ると、時々がに股になってたり、がに股の間からふんどしの端が見えたり・・となるのだが、正和様の場合はどんなにコマ送りしてもそんなものはお見せにならない。高橋英樹が動なら、正和様は静。う、美しいぃぃ・・。正和様のことを語ると、相当長くなるのでそれはまた次回にする。

正和様にうつつを抜かしている間に、時代劇はどんどん衰退し、気がつけばチャンバラ系は必殺シリーズか、長寿の黄門様ご一行に南町奉行と北町奉行が頑張っているくらい。そういえばマツケンサンバも居たな。だが、民放もNHKも、次第に藤沢周平や池波正太郎といった、チャンバラというよりしっとりとした時代小説を原作にしている時代物が多くなった。

そして、今。久々のチャンバラ劇、「鞍馬天狗」。長く続いたNHKの時代劇シリーズもこれを最後に終了するらしい。嗚呼、チャンバラは遠くになりにけり。

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2008年2月11日 (月)

ヰタ・チャンバラアリス 前編

Matsunosuke NHKで時代劇シリーズとしては39年ぶりに鞍馬天狗をしている。主演はエイスケさんこと野村萬斎。和服姿の立居振舞いがきれいで、初回から見ているが、実は39年前の鞍馬天狗もしっかりリアルタイムで見ていた。友人が天狗役の高橋英樹のファンで、見ろ見ろと薦めるので見たのが始まり。元々、家にあった司馬遼太郎・吉川英治・子母沢寛などの時代小説をよく読んでいたので、時代劇を見るのはけっこう好きだ。と言うより、チャンバラ好きと言っていい。

古くは目玉の松ちゃん、尾上松之助の「豪傑児雷也」。1921年制作だからいくらなんでもリアルタイムでは見てない。TVの特集番組か何かで見たのだが、がまがえるが白い煙とともに児雷也にへんし~んなんていう、いわゆる特撮がなんとも手作り風で微笑ましい。記憶になかったが、児雷也はどうやら空中も飛んでたらしい。CGなんて無い時代だ。演劇部の裏方経験者としては、往時の映画人の苦労が偲ばれる。でも、きっと現場は相当に楽しかったに違いない。

そうやって出来上がった活動映画を、生の楽隊が奏でるBGMをバックに、弁士が口角泡飛ばして盛り上げる。さぞかし映画小屋は熱気と興奮に包まれてたことだろう。そういう雰囲気を私も味わってみたいものだ。

昭和に入れば、鞍馬天狗に丹下左膳。鞍馬天狗はいわずと知れたアラカン、嵐寛寿郎だ。「杉作、おじちゃんはな・・」のセリフはアラカンじゃないとしっくり来ない。丹下左膳は「シェーハタンゲ、ナハシャゼン(姓は丹下、名は左膳)」でお馴染み、大河内傳次郎が有名だが私のお気に入りは、戦後に演じた新国劇の大友柳太郎。彼は文字通り奥歯に物の挟まったような、なんかちょっと空気が抜けるような発声をするが、目を剥き歯を食いしばっての大立ち回りとのギャップがあって、それもまた良い。

チャンバラと言えば、戦前は日活の牙城だったが、戦後はやっぱり東映時代劇だろう。モノクロからカラーになって、スクリーンの中は一気に華やかになった。その最たるものが「旗本退屈男」の早乙女主水之介。まぁ、金銀パール・・じゃないけれど、当時の侍はそんな着物は着ないぞ~なんて突っ込みもなんのその。派手な出で立ちにこれまた金ぴかの扇子を持って、「ッパ、この眉間に冴える三日月は、ッパ、天下御免の向こう傷。直参旗本早乙女主水之介、人呼んで旗本退屈男、うわっはっはっは」 もう、これだけで胸がスゥ~ッとするねぇ。

Arakanえっ、さっきあの人斬られてなかったっけ?と思うくらい押し寄せる敵をバッタバッタとなぎ倒すのが、この頃のチャンバラ劇の醍醐味だ。そして最後に大見得を切る。戦前から戦後にかけての剣戟スターは、梨園の傍系出身であったり、そうでなくても日本舞踊の素養がある人が多いせいか、所作の決め方が一々舞踊を見ているようだ。

東映は勧善懲悪のチャンバラ劇だけでなく、一心太助のように江戸庶民の生活を描いたり、東海道中膝栗毛のようなロードムービー的なものも制作した。一見落着、メデタシメデタシでいきなり一心太助の美空ひばりが、note今日のお江戸は日本ばれ~noteなんて歌い出したりして、なんじゃコリャなものもあるが、ミュージカル時代劇というちゃんとしたジャンルらしい。まぁ、早乙女主水之介にしろミュージカル時代劇にしろ、斬ったはったはGHQより差し止めになってたという裏事情もあって、敗戦直後の映画は、あえて明るく楽しくお賑やかに・・を前面に出したのだろうHatamotoと推察する。

1959年、現天皇の結婚を機に家庭にはテレビが普及しだし、東映は時代劇からヤクザモノに方向転換してしまった。映画でチャンバラは見られなくなってしまったが、その代わりチャンバラの隆盛はテレビにその場を移す。ところで、リアルタイムでチャンバラを見始めたのはテレビからで、映画は後々の事であると一応言っておく。

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2008年1月27日 (日)

劇団四季

Opera2 こう見えても(と言っても知ってる人は殆ど居ないだろうが)、中・高校時代は演劇部だった。女は生来の「女優」なんだそうだが、更に演技に磨きをかけた・・ってなことはない。発声が上手く出来ずセリフが聞き取りにくい、という理由で表舞台より裏方に回ることが多かった。が、それはそれで結構面白い。たかだか田舎の私立学校の演劇部、施設や機材が充実してるワケもなく、ミラーボールや効果音やエコーも全部手作りだ。何も無い所から何かを創り出す作業は、楽しいものだ。

顧問の先生が異常に大工仕事が上手で、最小限の釘でセットや大道具を作っていく。女子ばかりの演劇部にこれはとても助かった。一度、芝居の方針で行き違いがあり、顧問を代えてくれと学校に訴えて別の先生に来てもらったが、これがまた釘1本打てない不器用さで、僅か1年で生徒側からクビの宣告。「私達が悪うございました」と頭を下げて、前の顧問に戻って来てもらった。

この先生がどういうツテを頼ったのか、「劇団四季」に話をつけてくれた。お陰で当時参宮橋にあった稽古場に入れたり、若い劇団員さんに演技をつけてもらったり、日生劇場の楽屋に入れてもらったりと、多分今では考えられない事が出来た。だが、四季ばかりでない。若い人に芝居の面白さを知ってほしいという目的なのか、文部省の青少年育成何たら~のキャンペーンなのか、各学校に名の知れた劇団が移動公演をして回っていた。我が学校にも「民芸」と「テアトル・エコー」が来たのを覚えている。公演後は主演の役者さんを囲んだ座談会などもあり、芝居をより身近に感じたものだ。

これらの劇団同様、この頃の四季は基本的にはストレートプレイ専門。稽古場で見学させてもらったのは、加藤道夫の「なよたけ」だ。例外的に越路吹雪を迎えてのミュージカルはあったが、劇団員だけのミュージカルは子供向けの「青い鳥」ぐらいではなかっただろうか。

子供向けと言っても、日下武史や浜畑賢吉も歌い踊るという、今となっては超レアな舞台だ。月の女王を演じた影万理江の、慈愛に満ちた神々しさは、今でも忘れない。

大学に入って四季の舞台からも離れてしまった。一応専攻はアメリカの不条理演劇だったが、読む方に力が入ってしまい、見る余力をなくしてしまったのかも知れない。社会人になって気が付けば、四季は「コーラスライン」を筆頭にすっかりミュージカル集団となっていた。芝居はストレート、しかも舞台上の人間の数は少なければ少ないほど良し・・を好む私には、四季はますます遠のいた。

しばらくはtptや地人会、東京乾電池やボードビルショウなどを見て回り、オールビーの「動物園物語」をすると聞けば高円寺の小さなアトリエまで見に行った。そして、30過ぎてそろそろBroadway Musicalなるものも一度は見ておくかと思うようになった。が、ここで唖然呆然、四季のチケットが手に入らない

キャッツ初演以来四季の舞台は悉く走破している友人に聞くと、先ず友の会に入れという。友の会先行予約であらかた売れてしまうらしい。残っているのは平日のマチネぐらい。ロングラン公演ではダブル・トリプルキャストだから、マチネは大概2番手あたりが主演しているのも、売れ残る原因だろうか。こっちは別に人を見に行くのではなく、芝居を見に行くのだから2番手でも良いのだが、如何せん仕事を休んでまでは行けない。

四季がHPでキャスト表を掲載するようになってからは、ますますチケット争奪戦に拍車がかかったようだ。人気のある役者が主演の日はファンが大量に買い込むらしい。四季ファンが集う掲示板を見てみると、同じ役者の同じ舞台を何度も見に行っている。芝居を見に行ってるのではなく、役者を見に行っているのだ。感想も、「○○様、今日は喉の調子が悪かったようで心配です」とか、「○○様、今日はお手振りしてくれました」とか、「今日の○○様」的なものばかり。

ん~、あなた達なんか勘違いしてない? 四季は客寄せパンダみたいに役者を見せるのではなく、芝居を見せてるんじゃないの?と違和感を覚えた。こんな客達のお陰で本当に舞台を見たい人達の手にチケットが入らないのは何か納得いかない。掲示板での浮かれ具合を見るにつけちょっと怒りさえ感じた。

Cast_box ところが、こんな自称四季ファンの皆様に衝撃が走った。HPでキャスト表が掲載されなくなったのだ。詳細は分からないが、友の会の特典もだいぶ制限されたらしい。四季側の説明では、大量にチケットを購入し好きな役者が出ないと分かるとオークションに出して転売するという、ダフ屋的行為を防ぐ為だという。これに自称四季ファンの皆様は怒った。お客様に来て頂いてナンボの商売なのだから、お客様のニーズに応えるのが当然じゃないかと。

ふ~ん、そうか。金に飽かして、役者観察の回数を誇るのが「大切なお客様」なのか。

それじゃ、時間的にも経済的にも余裕はないけれど、一度四季の舞台を見てみたいと願う人は、自称四季ファンの皆様の放出品をじっと待つしかない訳ね。

また、今や四季を背負って立つ看板俳優が、現在長期に亘って休演状態だが、その件での四季代表である浅利慶太の言葉が、実に傲慢であると、これまた自称四季ファンの皆様の怒りが収まらない。

例の掲示板でも、自称四季ファンの皆様は文句タラタラ。やれ儲け主義だ、やれ非情だと、四季並びに浅利慶太の傲慢さを散々批判しておいて、最後にいわく、「大量にチケット買って反省」(←悪かったという意味ではなく、買いすぎて処理に困ってるらしい)とか、「チケット誰かに引き取ってもらいたい」・・。看板役者が出なくても、これをチャンスとばかりに必死に演じる団員が居るのだ。傲慢はどっちだ?

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2007年12月18日 (火)

ピーコ

Brand 文鳥のピーコちゃん・・ではない。本名、杉浦克昭、ファッション評論家のピーコである。メディアに出てきた頃は、双子の弟とセットで「ふたごのおかまでぇ~す」などと自ら名乗り、どちらかと言えばキワモノ的に扱われていた。実際にはデビュー(と言うのか)時からそれぞれ、ファッション評論家・映画評論家としての肩書きをちゃんと持っていたようだ。

自分で言うのも何だが、私は極めてリベラルな人物だ。その言動に共感できるならオカマだろうがなんだろうが関係ない。だが、ウチの母親ともなるとただひたすら「気持ち悪い」といって、画面に出てくるだけでチャンネルを換えようとしていた。が、ある日彼(彼女?)のファッションチェックを見て手が止まったという。ピーコの若い女の子のファッションに対する痛烈な言葉が、何事にも保守的な母親の感性にピッタリはまったようだ。

相変わらず言葉遣い(いわゆるオネエ言葉)は気に入らないようだが、その中身には大いに共感できるらしい。ピーコは高価なブランド物に安物の服を合わせるのをとても嫌がる。数万円のバッグや数十万円の腕時計を身に付けながら、「バーゲンで500円でぇ~す」なんてTシャツを着ていると、かなり痛烈(ボロクソともいう)に批判する。ジーパン・Tシャツ姿の年端もいかない若者が、不釣合いなブランドバッグを持っていたり、そのブランドバッグを免罪符に平気で高級ホテルに出入りする節操のなさを常々嘆いていた母親は、ピーコの言葉を聴いて溜飲を下げる。

ある番組で、視聴者が「PTAの会合」とか「主人とのデート」といった目的で、自分でコーディネイトしたファッションをスタジオでピーコにチェックしてもらうというコーナーがあった。ピーコは予めスタジオに持ち込んだ何点かの服やバッグや靴の中から、より目的に相応しいと思ったものを選び、着替えさせて使用前・使用後の姿を並べて解説する。

その目的がフォーマルなものである程、ピーコは襟のついたジャケットを選ぶ傾向がある。これも母親には「きちんとした服」を選んでいると好感が持てるらしい。

話は飛ぶが、社会学には人の生活はハレとケに分けられるという説がある。ハレはいわゆる行事的なこと、お正月、結婚式、祭り、葬式などで、ケというのはそれ以外の日常だ。着る服もこのハレとケでは違ってくる。晴れ着という言葉通り、ハレの日は特別な服を着る・・はずだった。が、最近は少なくとも服装の上でハレとケの区別が曖昧になっている。

私が子供の頃は、お正月といえば家族みんなが新調した服を着て初詣に行き、ついでに写真館で家族写真を撮るなどという洒落た事をする家庭もあった。が、最近の初詣は、ついさっきまでコタツに入ってテレビを見ていました・・という様な格好の人が多い。つまりケの服のままなのだ。逆に今晩のおかずを買いに近くのスーパーに・・という時でも、高価なブランド物のバッグを提げて行く。

ピーコが社会学的見地からファッションチェックをしているとは思えないが、ハレとケを混合させるような服装に否定的なのは確かだ。例えば昨今すっかり定着したミュールは、本来は日常を離れたリゾート地で履くものだし、だから素足が原則と言う。通勤用に履いたり、更にストッキングの上にミュールを履いてパタパタ音をたてて歩こうもんなら、「お下品!」となる。

ファッションにはTPOという言葉があり、ピーコのチェック基準もこのTPOがベースと思うが、ハレとケをきっちり線引きする年代の母親と、その感覚に相通じるものがあるようだ。要は年齢的にも経済的にも、その時の自分に相応しい装いをする、単純にそれだけだ。

Anya 今年、あるブランドがエコバッグと称して2000円程度の買い物バッグを売り出した。欧米のセレブや俳優が使い出して日本でも評判になった。夏、日本での販売が始まった。数量限定なので東京の店には発売日の前夜から人が並び、開店前には長蛇の列。店側は混乱を避けるため整理券を配るが、販売数より並んだ人数が多いから、当然買えない客も出て来る。

ここで店とお客の小競り合いが勃発する。やれ整理券の配り方が悪いだの、自分より先に来ていた客がもらってるだの、店のスタッフに対して非難轟々の嵐だが、その怒号の中に聞こえたのが、「わざわざ遠い所から買いに来てるのよ、並んでる人の分だけ売りなさいよ!」 何たるおバカ。あ~た、限定の意味分かってる?買いに来た客全員に売ったら限定じゃないじゃん!と思わず画面に突っ込んでしまった。

こんな大騒ぎのVTRを見た直後、「ピーコ、どう思う?」と振られたピーコ。「こんな事言って良いのかな~」と前置きして、「これ、2000円でしょ?普段何十万っていうバッグに囲まれているセレブが、エコを考えて敢えて2000円のバッグを買うなら意味があるけど、安物しか持ってない人が、2000円程度の買い物バッグ持ったってねぇ、どうって事ないわよ」 

この言葉で、母親の中のピーコの株はまた少し上がったようだ。

因みに、一時期ネットオークションで2万近くまでなったこのエコバッグ、今や定価割れで出回る、ただの布袋になっている。写真はこのブランドがエコバッグを製作するきっかけとなった、イギリスのレジ袋削減キャンペーンを訴えるサイト。あの狂乱の行列に並んだおバカさん達には見向きもされないんだろうな。

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2007年6月 9日 (土)

青春

Saredo_2 かつて一緒に暮らしていた夫が、全共闘運動の末端にに関わっていた事もあり、学生運動にちょっと興味がある。ただし、興味をそそるのはその思想ではなく、人間くさいとうか、いかにも学生らしいウラ話の方。

だいたい男子学生というのは、「学生運動の光と影の狭間で揺れるボク」に憧れるのだろうか。大学時代のボーイフレンドは、私が柴錬の「眠狂四郎」なんぞを読み耽ってるのを見て、「そんなのは大衆小説だ、もっと文学を読め」と言うので(今思えば確かにそうだ。が、狂四郎の生き方は今でも私の道標である)、「じゃぁ、何を読めば良い?」と聞くと、そのまま古本屋に連れて行かれ、「例えばこういう本」と自信満々で取り出したのが、柴田翔の「されど、われらが日々―」 同じ柴田でもかなり違う。

「最後のココ、『節子の傷の痕は痛まないだろうか。もし痛むのなら抱いて暖めてあげたいのだが・・』が、イイんだよな」と、自分を主人公に投影させて半ばうっとりしているようだった。残念ながらわが大学は学生運動とは縁遠く、このボーイフレンドも学生運動に手を染めることはなかった。

元夫は70年代初めが学生時代で、所属していた新聞会がそこそこ活動していた為、吉祥寺からわざわざ御茶ノ水まで遠征して、明大前の通りで石を投げていた。「何もわざわざ・・」と思ったが良く考えると中央線一本で行けたワケで、遠い成田は後輩に行かせてたらしい。偉そうに理屈をこねるわりには、けっこう手を抜いている。

御茶ノ水での相手は機動隊ではなく別組織の学生で、頭上に振り下ろされる角棒を思わず手で払ったが、その時父親から大学入学祝いにもらった腕時計に当たり難を逃れたという。「あの時、腕時計がなかったら、頭割られてたよ」と、よく話していた。

夏休み、成田に招集をかけられたが、自分たちは女の子と湘南へ遊びに行く事になっていたので、他に集会があるからとウソをつき後輩に行かせる事にした。が、座り込み準備万端の後輩と駅でバッタリ出会い、海水浴の格好に女の子連れの姿を見られ、ヒジョーに気まずい思いをしたらしい。後輩もかなり恨めしかったのか、怒りと哀しみが混ざった視線をよこしたそうだ。

Aogakuこの哀れな後輩は冬の法政大にも派遣?され、立てこもっていた屋上に放水車で水を思いっきりかけられ、布団がカチカチになって凍え死ぬかと思った・・と話していた。こんな目に遭いながらも、なぜか夫を慕ってくれてて、会えばこの頃の話を楽しげに語ってくれた。

従兄弟は60年代から70年に入る時期が学生時代で、東大の入試中止のお陰で第一志望の一橋の競争率が上がって弾き飛ばされ、明大に行った。まぁ、弾き飛ばされたのは入試中止のせいだけではないと、私は思っているが。本人は運動にはあまり興味がなかったが、友人が活動していたようだ。ある日その友人が学生会館か何かに立てこもりその辺の書類を見ていたら、自分が補欠スレスレで入学できてた事が分かり、少なからずショックだった・・と言っていたという話を聞かせてくれた。

立てこもり、悲喜こもごもであるが、「なんクリ」世代でディスコとシェーキーズ通いの、お気楽女子大生だった私から見ると、青春してるな~と思う全共闘時代である。

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2006年9月22日 (金)

恩人

Gakufu_1  小学生の頃、いわゆるイジメに遭っていた。今ほど暴力的ではないけれど、「バイキン」「キタナイ」等の言葉の暴力、無視、仲間外れ、給食のまずい脱脂粉乳のミルクを並々と盛られ、全部飲み干すまで囃したてられる。そんな毎日が3年ほど続く。

長い休みが終わる前夜は、明日行ってみたらイジメはなくなってるかも♪・・とかすかに期待するもそんなハズはなく、期待は毎回崩れ去る休み明け。「イジメる人間の方が悲しいのよ」という親の慰めは所詮大人の解決で、現場にいる当人にはイジメの現実しか目の前に無い。逃げたい、この現実からとにかく逃げたい・・と考え始めて辿り着く先は、この世からいなくなること。

なるべく痛くなく、苦しくない死に方はないものかと思い巡らす一方で、自分が死んだらみんなどう思うかな~、反省するかな、後悔するかな、イヤ、反省させてやる、後悔させてやると半ばアテツケ気味に死ぬ事を考えていた。

そんな時読んだ、ある指揮者のインタビュー記事。デビュー時は「若き指揮者3羽からす」ともてはやされたけれど、3羽の内1人はCM出演やCM曲、映画・TV音楽などの世界で頭角を現し、もう1人は海外で華々しい活躍を始める中、自分だけは取り残されてしまう。敗北感、挫折感に打ちのめされ、いっそ死んでしまおうかと考える。その時フト思った。自分が死んだらあの2人はどうするだろうか。悲しんでくれるだろうか、泣いてくれるだろうか。

Iwakiイヤ、あの2人のことだ。「なんだ、ずいぶん弱い人間なんだな」とか言いながら笑うかも知れない。死まで思い詰める原因になった当人達に、なんで死んでからも笑われなければならないのか? そう思ったら死ぬのがバカバカしくなった。どうせなら生きて見返してやろう・・そう思って死ぬのを止めました。

確か、こんな内容の記事だった。ガーンと頭を打たれた。そうだ、人のことをあんなにイジメる人間が、そう簡単に反省なんかするワケがない。アテツケに死んで、おまけに笑われてしまうなんて、何の意味もないじゃん。

それ以来憑き物が落ちたみたいに、死ぬことは考えなくなった。お陰で半世紀生き永らえて、人生を楽しませてもらっている。

私を「死」の呪縛から解き放してくれた指揮者は、何度も襲い掛かる病魔をものともせず、72歳にしてベートーベンの全交響曲をスコア無しで一気に指揮する、という離れ業を見せてくれた後、今年6月この世を去った。

でも、彼は命の恩人として、いつまでも私の中に愛しく生きている。

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2006年9月18日 (月)

はじまり

半世紀も生きてると、なんだか周囲のもの全てが、愛しく見えてくる。それが過去のものであっても現在のものであっても、そしてまだ見ぬ未来のものであっても・・・。

この世の森羅万象 すべての生き物

そして アナタへ

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