2008年3月18日 (火)

夫婦

Wedding 上司の奥様が亡くなった。享年56歳。女性の平均寿命から見ればまだ30年も早い。以前この会社に勤めていたこともあり、忘年会にも時々来られていたので、何度かお話もした事がある。このご夫婦の17年の歴史は、そんじょそこらの小説にも負けていない。

奥様は結婚当時から、難病特定疾患に指定されている病気を患っていた。上司はそれを分かっていて入院先の病院に、指輪を持ってプロポーズに行ったという

酔っ払うとこの上司はいつも言う、女性は太陽だと。飲み会に奥様も来られた時、帰りの電車の中で、いつものように上司のこの言葉が始まった。彼曰く、オトコはオンナが降り注ぐ太陽の光りの中、オンナの手の上でころころ転がりながら成長していくのが幸せなんだそうだ。それを隣で聞いていた奥様は、「それやったら、私はダメな奥さんやねぇ、病気で先に逝ってしまうか分からんし」と言うと、上司はこう言った。「そやから、アンタを守るのがオレの役目やねん」

人前で臆面もなくこう言われて、妻として嬉しくないわけがない。でも、奥様は言われ慣れているのか、さして感激もせず笑って聞いていた。

上司によれば、この頃既に奥様の状態は、生きているのが不思議なくらい身体のあちこちがボロボロな状態だったそうだ。病気そのものの症状もあるが、薬の副作用もあったという。足元が不安な奥様を気遣ってか、二人はずっと手をつないで歩いていた。

上司は闘病を続ける奥様をホントによくサポートしていた。病院の送り迎えは当然ながら、入院すれば朝の食事に付き合ってから出勤し、夜は夜で夕食に付き合うからと飛ぶように帰ってしまう。なにしろ、病院の夕食は時間が早い。もっとも一人ポツネンと家で食べたくないという上司の思いもあったのだろう。検査入院でしばらく家を空けていた奥様が退院するというその日、上司と帰りのエレベーターが一緒だった。「今日のオカズは何かな~」と言うので、「えっ、退院したその日からご飯作ってもらうんですか?」と聞くと、「当たり前でしょ」とエラそうに言う上司の顔は、嬉しさに溢れていた。

去年の秋頃から奥様の病状が悪化し、入退院を繰り返すようになった。特に腎臓が殆ど機能を果たさず、透析をすれば一旦持ち直すがいずれ生命の危機は訪れる、その期間は5年と言われたという。そして、上司夫婦は生体腎移植を選択した。

ただ、それだけの手術に奥様の体力がもつかどうかが最大の問題点で、体力の回復を待ってると腎臓が持ちこたえられない・・というギリギリの所で手術は行われた。手術は成功し腎臓の機能は回復したが、心配していた通り体力、特に弱っていた心臓が耐え切れなかったようだ。手術の3日後、奥様は力尽きてしまった。そしてここがまたこの夫婦のスゴイ所なのだが、病院が自宅から遠い上、本来諸々の手続きをする夫が同じく術後3日で身動きが取れない。結局奥様が自宅に戻るのは3日後となり、普通なら病院の安置室に置かれるのを、奥様はそのまま上司の隣のベッドで家に帰る日を待っていた。

上司より先に家に帰る事になった奥様だが、上司いわくとにかく家に戻りたがっていたから、どんな形であれ早く帰してやりたかったという。先に帰った奥様を追うように、上司も戻り葬儀となった。

Fairwellよく棺には寂しくないように、不便でないようにという想いから、故人が日頃使ってた物を入れる。まぁ、私自身はあまり死後の世界を信じてないので何もなくても良いのだが、もし入れてもらうのなら、大切な人からもらった大切な物も一緒に入れて欲しいと思う。例えば生きている今でも、飛行機などに乗る場合は何となくカレからもらった本を持っていくことにしている。墜落して死んでしまえばそれまでよ・・だが、万一生き長らえて救助を待つ身となった場合、カレの本を持っているだけで、心強いんじゃないかと思うからだ。

その点、奥様はとても心強いに違いない。何といっても夫の肉体の一部を体内に置いているのだから。男と女がその肉体を共有する瞬間ほど無防備に相手に身をゆだねるときはない。しかし哀しいかなその瞬間は長くは続かない。その関係によっては肉体が離れればそれっきりという男女もいるだろう。だが、奥様は、未来永劫夫と肉体を共有出来るのだ。

闘病生活の中で、上司は独特の死生観を持ったようだ。葬儀の際も棺の中の奥様を見て、「今は単なる亡き骸だから」と漏らしていた。それでも今は寂しさに押し潰されまいと病み上がりの身体で忙しい日常生活に戻っているが、周囲が心配するほど喪失感に囚われている様子は見えない。確かに覚悟もしていたのだろう。やれるだけのことはしたので悔いはない、と喪主挨拶でも会葬御礼でも断言している。だが、それ以上に、上司の中にも例え彼我の世界に離れても、肉体を共有しているという思いがあるからではないかと、勝手に考え、上司夫婦の繋がりの深さに勝手に感動している。

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2008年2月19日 (火)

男役

Nisimoto 西本智実を聴きに行った。それまでも知ってる人は知ってたと思うが、12月に車のCMに出演した頃から広く名前が知られたかもしれない。クラシックファン以外にも注目されたのは、珍しい女性指揮者という面もあるが、それなら以前にも松尾葉子さんというブザンソンで女性として初めて優勝された指揮者が既に存在している。彼女がなぜこうも話題になるかといえば、やはりそのヴィジュアルではないかと思う。

ヘアースタイル、メイク、衣装そしてその一挙手一投足、まるで宝塚の男役そのもの。大阪出身なので、ご本人もその辺を意識しているのではないかと勝手に思い込んでいるが、どうだろうか。あんな燕尾の長いタキシードなんて、宝塚くらいでしか見たことがない。その上、ヒールの高い靴でカッカッと舞台上を闊歩されれば、今にも「マリアンヌ!」と手を差し伸べて歌いだしそうな雰囲気だ。あ、「マリアンヌ」に特に深い意味はありません。でも、宝塚を見たことのある人なら、この雰囲気分かるでしょ?

日を同じくして「徹子の部屋」にも出演していたが、TV局の前にはファンの人が待ち構えていたとか。まさしく、宝塚のスターさんの「出待ち入り待ち」そのものだ。

私は5年ほど前に「情熱大陸」というTV番組で西本智実を知った。番組内ではバリバリの関西弁で話し、いかにも浪花のおね~ちゃんやなぁ・・と思えるような素顔だったが、最近はこの頃に比べヤケにおとなしくなってしまった感がする。どこか疲れたようなアンニュイな美男子風。ますます宝塚っぽい。

宝塚の男役は「ワザとらしい」と気持ち悪がられる事も多いが、そりゃ、そうだ。だってワザと「ワザとらしく」してるのだから。人気男役トップによると女性から見てカッコいいと思う男性の仕草を寄せ集め、かなり大袈裟に演ずるのがコツらしい。そして熱狂的ファンは、そこに理想の白馬の王子様像を見て目がハートになるという訳だ。

ここ数年、おねぇキャラのタレントがもてはやされている。しかも、振り付けとか生け花とかメークとか、その世界ではそれなりの経歴と業績を上げてる才能の持ち主だ。仕事をしている時の言動や仕事の出来そのものは十分に男っぽい。そのまま男として生活してたらきっとイイ女の一人や二人は寄って来てるはずだ。女から見れば、才能ある男がおねぇに走ってしまうのは何とも惜しい。とは言え、こればかりは本人の意思だからしょうがない。

彼(彼女?)達までではないが、最近の若い男の子はどうもおねぇ化しているように思える。以前職場にいた20代後半の男子は、3時頃になると必ず洗顔フォームで顔を洗い、ブルーベリーの甘~い香りののど飴をしょっちゅう舐めていた。その後に入った20代前半の男子になると、それに加え頻繁にメンズ用ウェットティッシュで顔を拭き、ハンドクリームも常備する。机の上にはそのティッシュやらのど飴やら目薬やら水のボトルやらが置かれ、PCをいじってる時も電話中も人と話す時も、常に髪の毛を指でクルクル回してる。どれも今までなら女の子の専売特許みたいな行動だ。百歩譲ってのど飴やウェットティッシュの使用は許すとして、せめて無香料のにせい!フローラル系の甘ったるい香りがパーティションの向こうから漂う度に、私の前に居るのは女か!と思う時がある。

それに比べ、足をガっと踏ん張り、時々髪をかき上げながら颯爽と指揮する西本智実の仕草は、実に男らしい。隣で見ていた母は、そんなに髪の毛が気になるなら最初から止めておけば良いのに・・というが、それでは男らしさが演出できない。いや、彼女が計算して髪をかき上げてるとは思わないが、宝塚の男役なら「髪をかき上げる」仕草は必須アイテムだ。

前述の職場の男子は、お弁当を食べる時や仕事中でも片方の足をもう片方の腿まで上げる足の組み方をする。足の長いのは分かるが、これは単に行儀が悪いだけ。男らしさと行儀の悪さを混同してもらっては困る。

Elizarepoph23 以前タモリが話していたが、宝塚の男役トップだった大地真央と新宿のとある店で飲んでた時、芸能人ということでしつこく絡む客が居た。その客を制止出来なかった店の不手際に怒った大地真央が財布をカウンターに叩きつけ、「出ましょう」とオロオロするタモリを促し、舞台調で「マスター、この店にはもう二度と来ないから!」と毅然と言い放って車に乗り込む姿を見て、タモリは「抱かれてもイイ」と思ったという。

最近は洋式トイレに座って用を足す若い男性も多いらしい。メンズ用基礎化粧品も続々と売られ、メンズエステも盛況だ。男っぽい仕草をカッコ良く決める王子様然とした西本智実が、おねぇ化しつつある男子に代わり、ヴァーチャルな男役として世の女性から憧れの眼差しで見つめられるのが分かる気がする。

さて、それで西本智実の音だが、New Year Concertという事もありウィンナ・ワルツなどもプログラムにあったが、とてもお行儀の良いウィンナ・ワルツだ。得意の?チャイコやボロディンからも、真面目さが滲み出ていた。棒の振り方も教科書どおりという感じで、外見の割には大人しい印象もある。が、例えば終わり方がジャ~ンでもなければジャン!でもない。どちらかと言えば、エイヤッ、ジャッ!と切ってしまうあたり何とも潔い。う~ん、やっぱりオトコっぽい。

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2008年1月 5日 (土)

不倫

Sibuya なんともお正月に似合わないネタだこと。

昨年、友人夫婦に離婚危機があった。友人である妻の職場が東京に勤める夫とは500kmほど離れている為、この2年は殆ど別居状態。最初は週3日の勤務以外は東京へ戻っていたが、仕事柄海外出張も多い。その内戻る回数も少なくなり、夫の転勤を機にとうとう職場近くにマンションを購入してしまった。これで、別居生活は決定的なものになった。東京を離れる時、共通の友人に漏らしたそうだ、夫が浮気していることを認めたと。自分の留守中家に入れた形跡があった事が、かなりショックだったようだ。

共通の友人の夫が、「簡単に認めたってことは、本気じゃないから大丈夫」と男ならではの慰め方をしたらしいが、果たしてその言葉を友人が信じたかどうか分からない。とりあえず夫々の任地へと別れて住み始めたのが4月。そして夏、夫が突然会社を辞め東京へ戻る事態になった。夫婦の間でどういう話し合いがあったのか分からないが、マンションまで買って今の職を続けようと思っていた友人は、自分も東京へ戻る事を決意。仕事の性格上一年は今の任地にいないといけないが、その後は東京で職を得るそうだ。

この正月は二人で仲良く(多分)海外で過ごしている。まぁ、元の鞘に戻る・・でこの話はメデタシ、メデタシなのだが、ふと思った。夫の浮気相手はどんな思いで新年を迎えてるのだろう。

私は『家庭のある男とは付き合わない』というスタンスで恋愛をして来た。これからもこのスタンスを崩すつもりはない。倫理的にどーのこーのではなく、単純に男女の立場が不公平と思うからだ。友人夫婦の例で象徴されるように、殆どの場合家庭を持つ男は家庭に戻る。要は逃げ帰れる場所を後ろに確保しながら、恋愛しているのだ。だが、そんな男と付き合う女には、逃げ帰る場所がない。だって、その相手が帰るべき場所なのだから。

実に不公平ではないか。

例えば週末や夏休み・クリスマス・誕生日・お正月といった、本当なら好きな人と過ごしたい時を一人で過ごさなければいけない寂しさ。相手が病気になった時、そばに居ることが許されず、ひたすら回復を祈るだけしかない切なさ。相手に子供が居れば、「子供のために」の大義名分で、限られた自分との時間を子供に譲らなければならない辛さ。社会はあくまで家庭を一つの単位としてその存在を認め、どんなに心が通じてようと社会的にはその存在を認めてもらえない悲しさ。

それを全部女が背負うのだ。

そして二人の間に別れが来た時、男は何食わぬ顔をして(或いは平身低頭して)家庭に戻り、ぬくぬくとその鼻先を家庭の温かさにもぐらせ、女は心の中にポッカリ空いた冷たい空洞にじっと座るしかない。

なんという不公平。

中には二兎追う者は・・の定説どおり、家庭からも不倫相手からも放り出されてしまう男もいるが、女が背水の陣で気持ちをぶつけて来ているのだから、男だってそのぐらいの事は覚悟して然るべき。自らその環境を選択する男が居るとすれば、アッパレだ。しかし、そんな覚悟も出来ない、イザとなったら逃げ腰になって顔が家庭に向くような男は、最初からおとなしく家庭に居付いてなさい。

Ie どうしても恋愛したければ、やはり家庭のある女を選べば良い。いわゆるW不倫。これなら立場的には平等だ。どちらかが潮時と感じたら、それぞれの家庭に戻って日常の生活を送るだけだ。家族との日々の生活が全てを受け容れ、全てを記憶の底に隠してくれる。

世の中にはいずれ家庭に戻る男と分かってても好きだから離れられない・・という人も居るだろう。人の想いはそれぞれだから、私はそういう人を否定はしない。むしろ、女側ばかりに背負う事が多い不公平な恋愛にあえて飛び込む勇気に敬服する。私にはそんな勇気も、それが不倫のリスクだからと納得するほどの度量の広さもない。途中で不公平さに憤慨するくらいなら、初めから家庭を持つ男とは付き合わないのが賢明と、心している。

第一、それを言っちゃおしまいよと言われそうだが、

人に知られちゃマズイ恋愛て、そんなに楽しい?

まっ、人それぞれだけど・・・。

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2007年6月30日 (土)

形状記憶

Venus 同い年の友人が、ホテル企画の日帰りボディーエステへ行った。オイルを塗って丹念にマッサージを受け、パックして蒸して揉んでその結果、「くびれが出来た!」 ただ、悲しいかなこのくびれは1日ともたないらしい。でも、一瞬でも美しいボディーラインの我が姿が鏡に映し出されるだけで、それとヨダレが出るような気持ちの良い時間を過ごせただけで、ン万円の価値はあったようだ。

病気にしても怪我にしても、回復力はめっきり落ちて来ている。同様に、垂れてきたお肉を元に戻すのも、以前よりかなり時間がかかるようになった。ほんの2-3年前なら、ちょっとジムに行ってマシンやエアロビでもすれば、少しは締まってきたものだ。月に2回の山歩きもそれなりの効果があった。

だが、今はどうだ。

下山後のお風呂は、山歩きのもう一つの楽しみだが、椅子に座ってふと正面の鏡を見ると、哀れ下腹部のお肉が腿の上に乗りそうな勢いではないか。以前は思い切り息を吸い込めば少しは引っ込んだものだが、今やビクともしない。楽しいお風呂タイムも、この情けない姿では楽しさ半減である。

「ウェストがゴム」の服はオバサンの必須アイテムだそうだが、気が付けば家に居る時はその手の服が多い。楽というのもあるが、ふむっ!と息を止めてお腹を引っ込めながら、ボタンやフックを掛けたり、ファスナーを上げたりするのが面倒というのもある。さすがに職場へは「ウェストがゴム」服で行かないが、それをやっちゃぁオシマイよ、、と思い、ちょっと前屈みになるとウェストのヘム部分が折れる違和感も我慢して、頑張ってお腹を引っ込めつつ毎朝服を着ている。

自慢じゃないが、幸いにも私にはまだ「くびれ」がある。我が家の脱衣所の壁には、中途半端な位置に鏡があり、顔は見えないが胴体部分がハッキリと映し出される。毎日そこで脱ぎ着する度に、鏡に映る「くびれ」のチェックをしているが、いつこの曲線が崩れやしないか、ビクビクものである。

Pants_1ある日、ふと脱いだ下着に目が行った。脱いだばかりのパンツは、特にゴム部分がかなり伸びきっている。だが、これを洗い乾かしている内にみるみると、元の可愛らしい小さなパンツへと戻って行く。

嗚呼、羨ましい・・・。

ゴムなんだから当たり前だが、使い込んだパンツでも同じように元に戻ってくれるのを見ると、日本のゴム技術の高さに驚くばかりだ。イギリスのパンツやパンストのゴムじゃぁ、こうはいかない。

身体のラインを保つよう努力するのも、オンナのたしなみ。分かっちゃいるが、毎日鏡に映る自分の肢体を見ながら、日本のパンツのゴムの10分の1でも良いから、この「くびれ」に形状記憶能力があれば、、と思う。馬鹿々々しいけれど、切なるオバサンの願い。

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2007年6月 6日 (水)

刹那

Okushiga_1 カレとは、かれこれ7年の付き合いになる。

遠距離である上に、お互い足代もままならないビンボー人なので実際に会えるのは年に2回位しかない。しかも男の更年期障害とでもいうのか、いわゆるプチ鬱状態で会えない時期が2年ほどあった為、会った回数は両手で数えられるくらいしかない。この7年の逢瀬を最初から一つずつ挙げよ・・と言われれても楽勝である。

普段は携帯で連絡を取り合っているが、向こうの経済事情でたまに携帯を止められたりするので、滞ることもある。そして、私はカレの携帯番号とメアドしか知らない。自宅も知らなければ(最寄駅は知っているが)、職場の連絡先も知らない。もっとも、職場は間借りで本人は殆ど居ないから、知っててもあまり役には立たない。自宅は田舎に引っ込んだ友人の家を借りているのだが、家主がいよいよその家を手放すらしく退去を迫られている・・という話を去年聞いていた。もしかしたら今はもうそこに居ないかもしれない。

別の男友達は言う。「キミは、都合の良いオンナ扱いされているだけだよ」

何度か深入りしないよう忠告してくれたが、私が自宅の住所や職場の連絡先を知ることにあまり意味がないと言うと、呆れ返ってそれ以降何も言わなくなってしまった。連絡先を知ったからといって、確かめに行こうという気も時間もないから、ウソを教えられても分からない。その程度の不確かな情報にしがみつく事が、そんなに信頼を深めることになるのだろうか・・。

そして、この男友達は気付いてないが、実は私の中にもカレを「都合の良いオトコ」として見ている部分がある。日々の行動に干渉しない、面倒な「結婚」という言葉を口にしない、私の興味があることにすべからく精通していて、疑問をぶつければ的確な回答をくれる。普段は私の「逢いたい」という言葉をテキトーに受け流しているが、本当に必要な時は自分がどんなに辛い時期でも時間を作ってくれる。これ以上「都合の良いオトコ」がどこに居る!

Azusa_2この「都合の良いオンナ」と「都合の良いオトコ」が、なんとかお金と時間をやりくりして、ようやく会いまみえお互いの肌に触れ合うその刹那、雪渓下の流れが一気に本流へ迸り出るように、切ないほどに愛おしい想いがあふれ、相手の存在が自分にとってどれほど大きいか思い知らされるのである。そう、白く凍る雪の下で、お互いを想う気持ちは絶えず流れているのだ、カレの願うとおり、さらっと深く・・。

老いさらばえた自分を見せたくないと常々語るカレは、いずれ私の前から姿を消すだろう。その日がいつ来るのかは、私にもカレにも分からない。逢う時はいつも、これが最期かもしれないという覚悟にも似た気持ちになる。だから、Jazzを語り、本屋を巡り、スキーを楽しみ、美味しい食事を味わい、旨い酒を飲む時のカレの表情、私を抱き、私にキスし、私の身体を愛し、私の中に入って来る時のカレの息遣い、どの刹那をも逃すまいと全身全霊をかけて私はカレと対峙する。

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