本 第二版
柴錬みたいな大衆小説より、文学を読め。
毎日学校で会えるのが嬉しくて仕方ない年上のボーイフレンドにこう言われて、シバレンモードが一気に萎えた。彼が又、同級生ながら色々な経験をしている3歳年上で、ちょっと正体不明と言うのも妙に説得力があった。確かに本もよく読んでいて博学でもあり、言ってみれば、「薔薇」という字が書けるだけで、アタシのカレシって頭イイと思うオネーチャンの気持ちが良く分かるという感じでしょうか。(^-^;
で、柴田翔の「されど、われらが日々-」を渡されたわけだが、シバレンモードが萎えたと同時に何となく本自体への執着みたいなのも落ちてしまい、時を同じくして芝居の方に興味が向いた事もあり、しばらく本からは遠ざかってしまう。
社会人になってからは、母曰く「ギョーカイにどっぷりと肩まで浸かった」バブリーな毎日で、ほぼ毎夜六本木辺りに出没し、本なんて読むヒマもない。そこで出会った元夫はプチ左翼系。まことしやかに理屈を並べ、やたら弁が立つ。独り暮らしでお金に困ると、紙袋に詰め込んだ文庫本を両手に提げて古本屋へ行き小銭を稼いだ、という話を聞かされて、本をたくさん読んでいるんだな~と単純に感心した。部屋に行けばJazzのレコードの合間に文庫本、単行本や「太陽」といったいわゆるムックがゴロゴロしている。
家の狭さのために、本棚に囲まれて暮らしていた環境のせいか、本が多い空間に居るとなぜかホっとするというか安心してしまう。結婚して分かったのは、本の嗜好が違うということ。元夫はSFファンタジーがお好みで、夢枕獏の「魔獣狩り」シリーズを次から次へと買って来たが、その面白さは最後まで分からなかった。後に今のカレに「神々の山嶺」を渡されて、へぇ~、こんな本も書くんだと知ったのだが、この「神々の山嶺」が柴田錬三郎賞を受賞したというのも、何やら因縁めいている。
沢木耕太郎の「深夜特急」を知ったのも元夫の部屋だ。そして本ではないが毎月購読していた「写真時代」も、最初は何コレ、エロ本?と思いながら見ていたのだが、次第にアラーキーの感性や赤瀬川原平の写真エッセーに惹かれるようになった。アラーキーは確かに天才だ。色使いが不思議でステキ。共働きでじっくり活字を追う時間もなく、あげく当の本が遠因でブチ切れ家を飛び出した。
それ以来本とは殆ど縁のない生活だったが、目の前に本あれば、何の抵抗もなく自然に目が文字を追う。今まで読んだ本が果たして今の私の根っこになってるかどうかは分からないが-ただ、狂四郎の『明日のために今日を生きてはおらぬ』はかなり引き摺っている-少なくとも「本を読む」という行為は既に身体に染み付いていたようだ。
カレと付き合い出して、また本が日々の生活の中に常に在るようになった。逢うたびに2冊くらいは渡され、おまけに後で「読んだ?どうだった?」と感想を求められるので、読まざるを得ない状況に追い込まれる。でも、苦痛なことは決してない。もらった本の作者がらみで、自分で探し出して読んでみる事もある。本屋や古本屋は、TDLやUSJ以上にめくるめくワンダーランドだ。
ただ、本を読むこと自体は楽しいのだが、集中力が以前のように持続しないことが哀しい。学生時代と違って時間がコマ切れに制約されるというのもあるが、本に入り込める加速度が昔より遥かに落ちている。古本が多いので活字が小さく、それも集中力を殺ぐというのもあるのかも知れない。やはり、東急ハンズの2500円のreading glassじゃダメか。
先日、今まで書庫として使ってた部屋を別の用途に使う事になり、本を大々的に処分する事になった。本を捨てるのは忍びないが、スペースを空けるにはどうしても残す本と処分する本を選ばなければならない。久し振りに見る本もあって、あぁ、こんな本もあったか、あんな本も読んだのかと懐かしむ・・場合じゃない。半分くらいに減らさないといけないので、心の片隅でチクリと痛みを感じながら、それでも思い切って半分に減らした。一旦肝が据わればエイっと捨てられるのがオンナの常。捨てずに捨てられずウジウジ悩むのがオトコの性(さが)。
ガランとした本棚の僅か二段が私に割り当てられたスペースだ。その内一段は写真が占めてるので、本が置けるのは一段のみ。この歳になると、たとえひん曲がってようと根っこは出来上がってしまっているから、これから読む本は、殆どが翼となるだろう。捨てきれずに残った私の根っこの横に、これからどんな翼がここで羽を休めるのか。
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